齋藤孝氏訳の「文明論之概略」を読んでいるのですが、
ショックなことが書いてありました。
「習慣の威力」という章の中で、西洋と東洋の違いに触れています。
西洋は議論をしっかりやることが習慣として定着しており、東洋は定着していない。
議論ができないと、民衆は自分で考えることもできず、良いアイデアも出せません。
政治は政府頼みになる。百万の心はそれぞれ百万の家の中に閉じこもっているだけで、家の外はといえば外国と同じに思って無関心である。井戸さらいの相談もできないのだから、道路工事など夢のまた夢だ。行き倒れの人を見ても走って通り過ぎ、犬のくそがあっても避けて通るだけ。関わり合いを避けるのに忙しくて、集ま手の相談などできやしない。長い間の習慣が、このような風俗を作り上げ、ついに今のような状態に陥ったのである。P156
ふむふむ、、、ん?
これって今の日本だってそう変りないような、、、
国民が愚鈍で淡白なのは、政府が専制政治をするのには便利だろうが、外国とのやり取りをするにはとてもあぶなっかしい。一国の人民として、その地方の利害を論じる気概がなく一人の人間として自分自身の尊厳を守ろうとする勇気がなければ、何を論じようとも意味がない。P159
今の時代で言えば、、、もし外人が自分の会社を乗っ取ってしまったら、何が言えるだろうか。何か議論できるだろうか。。。
では、日本はこれからどうすればよいのでしょう。もう議論できないのでしょうか。
そして、気概や勇気がないというのは、何も生まれ持った欠点というわけではない。習慣によって失われたものなのだ。よって、これを取り戻すためにはまた習慣の力によるしかない。習慣を変えることは大切なのである。P159
別に欠点ではなく、普段から議論することに慣れていないだけ。と。
すみません。
今の日本人も慣れてないです
明治時代が1868年~1912年まで。今から100年ちょっと前。
現代で「議論」は、匿名掲示板からの書き込みのイメージがありますが、どちらかというと「炎上」しちゃって大変なイメージがあります。
ではこれからの日本はどうすれば「習慣」として議論ができるか、
今後考えていきたいと思います。